昨日の僕と明日からの僕

1992年生まれ♂。2016年より会社員やってます。浪人したり転職ブランクつくったり、流れ流され生きています。暇なときに読みに来てもらえるようなブログを書いていきたいと思っています。カメラ、映画、音楽(B'z,COLDPLAY)

『罰(バチ)が当たる』に縛られる日々から解放されたい

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こんにちは。
ヒロヒロナです。

僕は昔から苦しめられていることがあります。


罰(バチ)が当たる



それは罰(バチ)が当たる。というものです。

でもこれって良く使いますよね?
人をおとしめようとしたから、バチが当たったんだ!
なんて、よく言いますよね。



でも僕の場合、自分の自分に対する行いで、バチが当たったのだという考え方をしてしまうのです。



例えば、ある程度仕事に慣れてきて、得意気に仕事をしているとき、慣れた仕事とは全く無関係の新たな業務でミスをしてしまったとします。
その時、僕は仕事を覚えて得意げになっているからバチが当たったんだ!と思ってしまうのです。

だから、いつまで経っても僕は自分のすることに自信が持てません。


また仕事以外でも、好きな人と話せたラッキーな日、その日に何か別の失敗すると(例えば仕事で失敗)、
さっき浮かれてたからだ!バチが当たったんだ!
という風な感じです。


まるで、不幸を待っているかのようです。
構えているしかありません(;_;)


どうしてこんな風に考えてしまうのだろう、と自分を振り返ると、僕の子供時代の親のしつけに思い当たることあります。
決して毒親だとか、親が嫌いとか、そういうことを言いたいのではありません

僕は、よく
「片付けしないからバチが当たったんだよ。」

とか
「宿題を早くやっておかないからバチが当たったんだよ。」
といった感じで、僕の失敗の原因を僕の行いの悪さにあるとされてきました。


もちろん、片付けしなかったから自転車に傷がついてしまったとか、宿題やらなかったからゲームが壊れたとか、原因と結果に因果関係がないことは当時も分かっていました。 
そんなわけあるか!w
って、心で思っていました。


でも、いつの間にか僕の中で「バチが当たった」のだ、という思考が少しずつ育っていき、自分を苦しめるようになってきました。


スポーツの大会で1位になって褒められたときも、
「たまたまだよ。ラッキーだったんだよ。」
って答えていましたし、

僕の絵が市の展覧会に出展されることになって褒められたときも、
「たまたま、先生の好みの絵だっただけだよ。」

って、答えていました。

本当は見えないところでメッチャ頑張りましたので、メチャメチャ嬉しい気持ちがありましたが、
こんなところで浮かれたら、バチが当たってしまうにちがいありません。
僕は、喜びを心の中から押し殺しましたし、褒めてくれた人に対しても冷めた返事をしていました。
せっかく褒めてくれたんだから、素直に喜べよ、僕!褒めてくれた人に失礼だろ!

当時の僕に言いたいことが、山ほどあります(^-^;


僕は今でも、素直に喜ぶことが苦手です。
良いことがあればあるほど、ネガティブなことに怯える日々。

気持ちをポジティブにすることは出来るのです。
ジョギングしたり↓
www.hironablog.com

でも、最後には不幸が、ネガティブがやってくると思ってしまいます。
本当にネガティブを待っているかのようだ。。。


「罰が当たる」という言葉は、本当はこんなに自分を縛る使い方はしないのでしょうが、
認知の歪みっていうのは厄介ですね。


ネガティブを待つ日々、バチに怯える日々から抜け出したい。。。
未だ、答え出ず。。。。

To be continued...



でもブログで文字にアウトプットしてみて、初めて自分を客観的に見れたような気がします。
何か、変化があったらまた書こうと思います。


では
ヒロヒロナ